彼とは散らかった部屋の中で出会った。
部屋の状態はその人の性格を表すとか言うけど、この人を見る限りでは、ここはまるで別人の部屋のようだった。
彼は白いワイシャツに地味な色のネクタイ、それから地味な色のスーツを着て、この混沌とした部屋に置かれたひとつっきりの椅子にただじっとに座っている。僕は部屋を見回した。
この部屋には水道があるけど、蛇口が錆びているしバケツに張られた水は濁っている。とってつけたような鏡は四隅から曇って、あまり使い物にはならなそうだ。
食器棚には食器のかわりにたくさんの瓶がならんでいた。食器棚に近づいて、扉をあける。瓶の中身はよくわからない。ゴムでとめられた透明のセロファンを指で破ってドロドロの中身をすくう。ジャムらしき濁った半固体に、たくさんの画鋲が雑じっていた。さすがにこれは食べたくない。瓶を戻してから手をきれいに拭いて、彼のほうを振り向く。
彼の目の前に置かれたテーブルの上には錠剤やカプセルがたくさん転がっていて、それから水が入っていたであろうコップ。錠剤の入っていた瓶はいくつか床に落ちて錠剤をばら撒いている。その錠剤を食べたのか、ネズミが一匹死んでいた。床には山積みの本。絵本でも小説でもいい。あとは書類。とにかくたくさんある。埃まみれのソファーの上にだって書類が積まれてる。どかしてみたらクレヨンが出てきた。でも画用紙が見あたらない。
僕は彼の前に立って、彼の肩を叩いた。
「なあ、アヒルもパーティーに行きたかった。そうだろう?」
彼はそう言った。動かした足が床に積まれた本を蹴飛ばして、山がくずれる。
「もちろん。けどあなたは?」
「俺も行きたかった。トカゲが行くなと騒ぐんだ」
この部屋にトカゲはいない。開けっ放しの窓からするりと入り込んできたカラスアゲハは、バケツにとまって水を飲んでいるところだけど。
外は明るい。豆電球の灯りも点けてないこの部屋に差し込んで、舞い上がった埃を照らしてる。
「ネコがいないんだ。独りじゃ外には出られない」
彼は泣いていた。
仕方がないので、ネコを探してくると約束して、僕は散らかった部屋を出た。
部屋の状態はその人の性格を表すとか言うけど、この人を見る限りでは、ここはまるで別人の部屋のようだった。
彼は白いワイシャツに地味な色のネクタイ、それから地味な色のスーツを着て、この混沌とした部屋に置かれたひとつっきりの椅子にただじっとに座っている。僕は部屋を見回した。
この部屋には水道があるけど、蛇口が錆びているしバケツに張られた水は濁っている。とってつけたような鏡は四隅から曇って、あまり使い物にはならなそうだ。
食器棚には食器のかわりにたくさんの瓶がならんでいた。食器棚に近づいて、扉をあける。瓶の中身はよくわからない。ゴムでとめられた透明のセロファンを指で破ってドロドロの中身をすくう。ジャムらしき濁った半固体に、たくさんの画鋲が雑じっていた。さすがにこれは食べたくない。瓶を戻してから手をきれいに拭いて、彼のほうを振り向く。
彼の目の前に置かれたテーブルの上には錠剤やカプセルがたくさん転がっていて、それから水が入っていたであろうコップ。錠剤の入っていた瓶はいくつか床に落ちて錠剤をばら撒いている。その錠剤を食べたのか、ネズミが一匹死んでいた。床には山積みの本。絵本でも小説でもいい。あとは書類。とにかくたくさんある。埃まみれのソファーの上にだって書類が積まれてる。どかしてみたらクレヨンが出てきた。でも画用紙が見あたらない。
僕は彼の前に立って、彼の肩を叩いた。
「なあ、アヒルもパーティーに行きたかった。そうだろう?」
彼はそう言った。動かした足が床に積まれた本を蹴飛ばして、山がくずれる。
「もちろん。けどあなたは?」
「俺も行きたかった。トカゲが行くなと騒ぐんだ」
この部屋にトカゲはいない。開けっ放しの窓からするりと入り込んできたカラスアゲハは、バケツにとまって水を飲んでいるところだけど。
外は明るい。豆電球の灯りも点けてないこの部屋に差し込んで、舞い上がった埃を照らしてる。
「ネコがいないんだ。独りじゃ外には出られない」
彼は泣いていた。
仕方がないので、ネコを探してくると約束して、僕は散らかった部屋を出た。
NO CATEGORY | 2010/01/21(木) 18:34 | | Comments:(1)
「さあて次の商品に参りましょう。七番、廿日です。既に成人しておりご覧の通り傷物ですが童貞。体力でしたら十二分にあります」
赤いボロカーテンの奥から出てきたのは、黒い髪をした体格のいい男だった。左目にはボロい包帯がぐるぐると巻かれていて、着物は髪と同じ色だが随分と汚れている。それから裸足だ。
七番の廿日と呼ばれたその男はとても大人しく、照明にあてられた熱い舞台の上まで来てからじっと身動きをしなかった。
ただ照明が眩しすぎて、少しだけ目を細め、そしてここは何処だろうと考えた。
ここは奴隷市場だ。ひしめく客人たちは皆、自分の下で扱き使うための奴隷を探しに来ている。
彼らのために奴隷として売りに出される人間は老若男女様々。買われてからやることになる仕事も様々だ。女は娼婦になったり、男は肉体労働をさせられたりする。そして等しく死んでいく。
自分はこれから何になるんだろうか。労働ならいい。鞭で叩かれようとも決して倒れないだろう。最期まで涙も流さず、弱音も吐かず働いてみせよう。それが自分の運命だ。運命なのだ。
そんなことを考えながらただ立つだけの七番の廿日を、一番むこうの高い場所から見ている男がいた。
「千二十万。千二十万です。それ以上の方はいませんか?」
正直、労働者なんていくらでもいるのだ。その辺の浮浪者でも寄せ集めればいい。それでもこういう場所で売りに出される奴隷はある程度の審査に受かっていて大体が健康だし体力もあるので、少しばかりの金をだしてそういうのを雇おうと思う奴らはいる。
男は手を挙げた。
七番の廿日は七番と書かれた札をはずされ、ただの廿日になった。手枷もなくなって、心なしか寒くて寂しい。
やってきた男はすっかり身軽になった廿日を見て言った。
「よう、自由になった気分はどうだ?」
「自由?俺は何をしたらいい?何でもする」
その言葉に、男は大げさに溜息をついた。廿日にはその溜息の意味がよくわからない。ただ自由という言葉が酷く恐ろしく、手が震えているのを感じた。
嗚呼、自由だって?自由とは何だろう。嫌だ、何かに掴まっていなくては。そう頭の中で何度も繰り返した。
「とにかく、俺はもう帰る。お前が市場に並ぶ理由はもうなくなったから、何処へ行ったっていいんだぞ。いいな?くれぐれもまたヘンなものに巻き込まれて身体売らなきゃなんてことにならないようにな。お前意志強そうだから大丈夫だろ。俺ぁ何度も奴隷市場を覗いてるけど、誰も彼も泣いたり喚いたりしてたさ。けどお前は違う。そうだろ。じゃあこれで」
話すだけ話した男はさっさと行ってしまった。取り残された廿日は、照明もない部屋で佇む。足元が酷く冷たいのを思い出した。それから、こんなボロボロの着物ではとても暖まれないということも。
どうして思い出してしまったんだろう。あの熱い照明に焼かれる舞台の上で立ち尽くす間、どんなに心踊っただろう。休みなく歩き続けた後に訪れる永久の休息のどれほど愛おしいことか。
廿日はそのまましばらく立ち尽くした後、冷え切った足の痛みを忘れようと、暗い部屋から出た。
赤いボロカーテンの奥から出てきたのは、黒い髪をした体格のいい男だった。左目にはボロい包帯がぐるぐると巻かれていて、着物は髪と同じ色だが随分と汚れている。それから裸足だ。
七番の廿日と呼ばれたその男はとても大人しく、照明にあてられた熱い舞台の上まで来てからじっと身動きをしなかった。
ただ照明が眩しすぎて、少しだけ目を細め、そしてここは何処だろうと考えた。
ここは奴隷市場だ。ひしめく客人たちは皆、自分の下で扱き使うための奴隷を探しに来ている。
彼らのために奴隷として売りに出される人間は老若男女様々。買われてからやることになる仕事も様々だ。女は娼婦になったり、男は肉体労働をさせられたりする。そして等しく死んでいく。
自分はこれから何になるんだろうか。労働ならいい。鞭で叩かれようとも決して倒れないだろう。最期まで涙も流さず、弱音も吐かず働いてみせよう。それが自分の運命だ。運命なのだ。
そんなことを考えながらただ立つだけの七番の廿日を、一番むこうの高い場所から見ている男がいた。
「千二十万。千二十万です。それ以上の方はいませんか?」
正直、労働者なんていくらでもいるのだ。その辺の浮浪者でも寄せ集めればいい。それでもこういう場所で売りに出される奴隷はある程度の審査に受かっていて大体が健康だし体力もあるので、少しばかりの金をだしてそういうのを雇おうと思う奴らはいる。
男は手を挙げた。
七番の廿日は七番と書かれた札をはずされ、ただの廿日になった。手枷もなくなって、心なしか寒くて寂しい。
やってきた男はすっかり身軽になった廿日を見て言った。
「よう、自由になった気分はどうだ?」
「自由?俺は何をしたらいい?何でもする」
その言葉に、男は大げさに溜息をついた。廿日にはその溜息の意味がよくわからない。ただ自由という言葉が酷く恐ろしく、手が震えているのを感じた。
嗚呼、自由だって?自由とは何だろう。嫌だ、何かに掴まっていなくては。そう頭の中で何度も繰り返した。
「とにかく、俺はもう帰る。お前が市場に並ぶ理由はもうなくなったから、何処へ行ったっていいんだぞ。いいな?くれぐれもまたヘンなものに巻き込まれて身体売らなきゃなんてことにならないようにな。お前意志強そうだから大丈夫だろ。俺ぁ何度も奴隷市場を覗いてるけど、誰も彼も泣いたり喚いたりしてたさ。けどお前は違う。そうだろ。じゃあこれで」
話すだけ話した男はさっさと行ってしまった。取り残された廿日は、照明もない部屋で佇む。足元が酷く冷たいのを思い出した。それから、こんなボロボロの着物ではとても暖まれないということも。
どうして思い出してしまったんだろう。あの熱い照明に焼かれる舞台の上で立ち尽くす間、どんなに心踊っただろう。休みなく歩き続けた後に訪れる永久の休息のどれほど愛おしいことか。
廿日はそのまましばらく立ち尽くした後、冷え切った足の痛みを忘れようと、暗い部屋から出た。
NO CATEGORY | 2010/01/21(木) 18:34 | | Comments:(0)
少し前、一人暮らしを始めた。
一人暮らしっていうのは利便性なんかも考えるものだと思うけど、俺はただ自由や気楽さを求めて家を出た。
実家が都会の方だったから、田舎のゆっくりした空気に憧れてたんだと思う。
家のことは気にしなくていいし、人のやることに一々とやかく言ってくるお母さんもいない。
このあたりでは比較的新しいアパートの一室を借りて、近場に店がないから自転車も買った。
五分も歩けば舗装された道路のむこうに砂浜と海があるけど、遊べるほど綺麗じゃないから誰もいない。
それから海よりも駅のほうがずっと遠い。コンビニはちょっと自転車で走ればひとつだけある。
ご近所さんは花の世話が好きなおじいさんや世間話の好きなおばあさん。
若い男が都会から引っ越してくるなんて珍しいのか、みんな親切にしてくれる。
いい場所だよ。引っ越してきてよかったと思う。
ひとつ忘れてたのは、店がないから仕事やバイトも見つからないってこと。
後先考えずに実家を出て無事部屋を見つけたのはよかったけど、これじゃお飯の食い上げだ。
それでもあっちで稼いだ貯金があったから、少しずつおろして生活することはできた。
仕事探しついでに散歩するのが日課になった頃、歩いて五分の海沿いに、家が一軒立ってるのを見つけた。
今まで気づかなかったけど、普通に人が住んでいて、というより店をやってるみたいだった。
ドアのところには手書きで「ざっかや あいてます」と書かれた札がかかってて、どうやら雑貨屋さんらしいんだけど、店先に並んでる値札のついたものはどう見てもガラクタばっかりだ。
けど俺はこういうものが大好きで、とても興味を惹かれた。
白いペンキで塗られた木製のドアをあけると、チリンとベルが鳴った。
都会にいた頃に働いてた喫茶店を思い出した。
懐かしい。そんなに日は経ってないはずなのに、ずっと昔の事に感じた。
店の中は窓から入る光で薄明るかった。所狭しと置かれた棚に、さらに所狭しと置かれたガラクタたち。
ひとつひとつに手書きの値札がさがっていて、ここに置いてあるものは全部売り物らしかった。
「いらっしゃい。あれ、ずいぶんと大きな子どもだね」
店の奥から出てきたお兄さんは、俺を見るなりそう言った。
聞けばこの店は、少し遠くから海まで遊びに来る子どもたちのために、拾ったガラクタを綺麗にして、子どもの小遣いでも買えるような値段で並べてるとこらしい。
「海の思い出にね。ここはあまり綺麗じゃないから」
その後お兄さんはぬるいお茶を出してくれて、狭い部屋の中でふたり座って飲んだ。
最近引っ越してきたんだということと、今は仕事を探してるんだということを話すと、じゃあうちで働いてみないかと誘われた。
でもそれは丁重にお断りした。お兄さんはどっちでもいいようだった。
それからお兄さんはガラクタを集めに海にでて、俺もそれを手伝った。
しばらくすると疲れて、道路わきに座って海を眺めた。
時間は止まりそうなぐらいひどくゆっくり流れた。暖かくてとても心地がよかった。
「海、好き?僕は好きだよ。泳ぎたい?」
「ううん・・・見てるほうが好きかな」
「海の向こうには何があると思う?」
「わからない」
「何もないよ、海だから」
「そっか。それならなおさら、見てるだけでいいよ」
「でも、もし本当に地球が丸いなら、一周すれば君のお家があるかも」
家は嫌いじゃない。でも帰る場所ではない気がした。
ふと、弟は元気にやってるかな、なんて思った。
家のことは、俺なんかよりずっと頭のいい弟が継ぐんだ。俺は足手まといになるだけ。
本当に?でも今はそう信じるしかなかった。それにここはいい町だ。
結局、それからしばらくして、俺は少し遠くの駅にある飲食店で働く事にした。
自転車ならすぐだし、自給もそれなりにいい。
たまにお兄さんの雑貨屋に寄って、ガラクタ集めを手伝ったり、中でも綺麗なものを買って部屋に飾ったりしてる。
「綺麗なものは、大抵子どもがすぐに買って行っちゃうからあまりないんだよ。
子どもは目がいいからね。綺麗なものを見つけるのがとても上手なんだ」
お兄さんはよくそう言いながら、集めてきたガラクタをみがいてる。
その通りだと思った。
だから俺は、綺麗なものを綺麗だと思えるのが、あの都会の忙しなさが、ぜんぶぜんぶ愛しく思えるのが嬉しくて、涙が止まらなかった。
ここではいくら情けない顔で泣いても、低い夕陽は暖かいし、照らされた海はまぶしい。
それに海を渡らなくたって、俺の家はちゃんとこの地面の上にあった。
一人暮らしっていうのは利便性なんかも考えるものだと思うけど、俺はただ自由や気楽さを求めて家を出た。
実家が都会の方だったから、田舎のゆっくりした空気に憧れてたんだと思う。
家のことは気にしなくていいし、人のやることに一々とやかく言ってくるお母さんもいない。
このあたりでは比較的新しいアパートの一室を借りて、近場に店がないから自転車も買った。
五分も歩けば舗装された道路のむこうに砂浜と海があるけど、遊べるほど綺麗じゃないから誰もいない。
それから海よりも駅のほうがずっと遠い。コンビニはちょっと自転車で走ればひとつだけある。
ご近所さんは花の世話が好きなおじいさんや世間話の好きなおばあさん。
若い男が都会から引っ越してくるなんて珍しいのか、みんな親切にしてくれる。
いい場所だよ。引っ越してきてよかったと思う。
ひとつ忘れてたのは、店がないから仕事やバイトも見つからないってこと。
後先考えずに実家を出て無事部屋を見つけたのはよかったけど、これじゃお飯の食い上げだ。
それでもあっちで稼いだ貯金があったから、少しずつおろして生活することはできた。
仕事探しついでに散歩するのが日課になった頃、歩いて五分の海沿いに、家が一軒立ってるのを見つけた。
今まで気づかなかったけど、普通に人が住んでいて、というより店をやってるみたいだった。
ドアのところには手書きで「ざっかや あいてます」と書かれた札がかかってて、どうやら雑貨屋さんらしいんだけど、店先に並んでる値札のついたものはどう見てもガラクタばっかりだ。
けど俺はこういうものが大好きで、とても興味を惹かれた。
白いペンキで塗られた木製のドアをあけると、チリンとベルが鳴った。
都会にいた頃に働いてた喫茶店を思い出した。
懐かしい。そんなに日は経ってないはずなのに、ずっと昔の事に感じた。
店の中は窓から入る光で薄明るかった。所狭しと置かれた棚に、さらに所狭しと置かれたガラクタたち。
ひとつひとつに手書きの値札がさがっていて、ここに置いてあるものは全部売り物らしかった。
「いらっしゃい。あれ、ずいぶんと大きな子どもだね」
店の奥から出てきたお兄さんは、俺を見るなりそう言った。
聞けばこの店は、少し遠くから海まで遊びに来る子どもたちのために、拾ったガラクタを綺麗にして、子どもの小遣いでも買えるような値段で並べてるとこらしい。
「海の思い出にね。ここはあまり綺麗じゃないから」
その後お兄さんはぬるいお茶を出してくれて、狭い部屋の中でふたり座って飲んだ。
最近引っ越してきたんだということと、今は仕事を探してるんだということを話すと、じゃあうちで働いてみないかと誘われた。
でもそれは丁重にお断りした。お兄さんはどっちでもいいようだった。
それからお兄さんはガラクタを集めに海にでて、俺もそれを手伝った。
しばらくすると疲れて、道路わきに座って海を眺めた。
時間は止まりそうなぐらいひどくゆっくり流れた。暖かくてとても心地がよかった。
「海、好き?僕は好きだよ。泳ぎたい?」
「ううん・・・見てるほうが好きかな」
「海の向こうには何があると思う?」
「わからない」
「何もないよ、海だから」
「そっか。それならなおさら、見てるだけでいいよ」
「でも、もし本当に地球が丸いなら、一周すれば君のお家があるかも」
家は嫌いじゃない。でも帰る場所ではない気がした。
ふと、弟は元気にやってるかな、なんて思った。
家のことは、俺なんかよりずっと頭のいい弟が継ぐんだ。俺は足手まといになるだけ。
本当に?でも今はそう信じるしかなかった。それにここはいい町だ。
結局、それからしばらくして、俺は少し遠くの駅にある飲食店で働く事にした。
自転車ならすぐだし、自給もそれなりにいい。
たまにお兄さんの雑貨屋に寄って、ガラクタ集めを手伝ったり、中でも綺麗なものを買って部屋に飾ったりしてる。
「綺麗なものは、大抵子どもがすぐに買って行っちゃうからあまりないんだよ。
子どもは目がいいからね。綺麗なものを見つけるのがとても上手なんだ」
お兄さんはよくそう言いながら、集めてきたガラクタをみがいてる。
その通りだと思った。
だから俺は、綺麗なものを綺麗だと思えるのが、あの都会の忙しなさが、ぜんぶぜんぶ愛しく思えるのが嬉しくて、涙が止まらなかった。
ここではいくら情けない顔で泣いても、低い夕陽は暖かいし、照らされた海はまぶしい。
それに海を渡らなくたって、俺の家はちゃんとこの地面の上にあった。
NO CATEGORY | 2010/01/21(木) 18:33 | | Comments:(0)
薄い夕闇が公園を包んでいる。
子どものいない公園で、冷たいベンチに独り座っている。赤く腫れた傷を気にしながら、誰かを待っている。
俺は退屈していた。だけど退屈しのぎの遊具なら、ここにはいくらでもある。
俺は時々独りで遊具を揺らしてみる。大きな網目のボールをくるくるまわしたり、鉄棒でぐるぐると前まわりをしてみたりする。
子どもは三半規管をおかしくするのが好きらしい。それは大人もだけど。
それともこれらの遊具を考案したのは大人なんだから、大人のほうがよっぽど好きなのかも知れない。
疲れ果てるまでまわると、ふらふらとベンチまで戻ってきて座り込む。そしたらまた退屈になるまで休憩する。
冷たい空気を肺いっぱいに吸って、吐く。火照った体の熱が奪われていく。
時々こうやって無意味に体力を消耗したりしてみるのは、退屈しのぎとは別に、この凍える寒さをしのぐためでもあるのかも知れない。
ここはとても寒い。けど風はあまり吹かなくて、どちらかというと凛とした寒さだから、あまり辛いとは感じない。
それに人通りが多いから寂しさも紛れる。
特に多いのは犬の散歩で、時々どっちが連れられているのかわからない人もいる。
その様子を見ているのは中々面白い。
俺は気がむけば道行く人に喋りかけてみることもある。散歩?とか、寒いなあ、とかそういう他愛のないことを。
大抵はちょっと立ち止まって、愛想良く笑って返事をしながらまず俺の身なりを見る。何の問題もない格好だ。
それからすぐに立ち去っていく人もいれば、しばらく立ち話をしたり、一緒になってベンチに座って話すこともある。
何度かここで会って濃密な時を過ごすうちに親しくなった人もいる。
このお喋りを終えたあと、親愛なる彼らがどうやってこの公園を出て、どこへ行くのかを考えたことはない。
お喋りはとてもいいことだというのだけはわかる。退屈しのぎにも、体を温めることにもなるから。俺はお喋りが好きだった。
もう随分と長い間ここで過ごしているけど、食事や風呂の心配はない。毎日ちゃんと家に帰って、済ませているからだ。
ただ、そう感じたりやったと認識しているだけで、実際にそれらをやっている間の記憶も、家に帰った記憶も、ましてやこの公園から出た記憶すらもないのだけど。
お腹が空いていることに気づいてからしばらく経つとお腹が膨れていることに気づいたり、どんなに経ってもこの公園に来た時と同じ風呂上りの香りがして髪も汚れていないというのがわかるというだけだった。
この公園に来た時、とは言ったけど、実際どれぐらい前にどうやってここに来たのかは覚えていない。
いつもより大分遅く、そう昼過ぎ頃に起きてきて、風呂に入って、というところだけは覚えている。
時々、もしかしたら世界の、少なくとも俺がいるこの公園の時間がすっかり止まってしまってるんじゃないかと思うことがある。
でもこの公園には時計があって、その時計はちゃんと時間を刻んでいる。
だけど俺が見てきた限りでは、この時計には3時から5時の間しか存在しない。
5時を指しているのを見たと思えば、次に目をやった時には3時過ぎになっているからだ。
ここには3時から5時の間しか存在しないのか。
それとも、俺は記憶障害か二重人格か、またはその他のなにかで、本当はちゃんと家に帰って温かい晩飯を食べたり、風呂に入ったりしているのかも知れない。
それからもし二重人格なのだとしたら、こうやって意識をもっている時間がたったの2時間ということは、俺のほうが嘘の人格だって可能性が高い。
尤も、もう一方の人格を知りえない俺にとっては、どうでもいい話だけど。
俺はただここにいるだけで何も問題を起こさないし、もう一方が俺のせいで迷惑しているとは考えられない。
再び退屈が訪れる。俺が一番気に入っている遊具は、この錆びたブランコだ。
狭い枠の中に、ふたり分だけ吊るされた小さなブランコ。
でも、よくよく考えてみたら、今までこれに座った覚えがない。
曖昧な意識の中で、ブランコに腰掛ける。時計は相変わらず3時と5時の間を行ったり来たりしている。
不意に思い出す。俺は誰かを待っている。恋焦がれ、想うだけで身が火照るほどの誰かを。
凍える寒さの公園にやってきて、この小さなブランコのもう片方に座るはずの誰かを。ずっと待っている。
もしいつかやっとその誰かが現れた時、俺はどんなことを話そう。親愛なる友に、この愛を伝えるにはどうしたら。
夢の話はどうだろう。ここで待っている間に見た、あらゆる夢の話だ。
人は、俺はあまり夢を見ないほうなんだと思っているだろう。本当はその逆で、俺は一日のほとんどを夢や空想の中で過ごしている。
その上で夢からはみ出た部分が現実に触れているんだと言ってもいいかも知れない。
現実とはこの公園なのか、はたまた俺が覚えていないなにか公園の外にあるものなのかはわからない。
俺の夢や空想は甘くて心地よくて、人に話すのをためらうぐらいに幸せなものだ。
だけどこれから出会うことになる親愛なる友になら、俺の秘密を話してもいい。
3時から5時の間に繰り広げられる、薄い夕闇に包まれた甘美な夢。甲斐甲斐しくあなたを待ち続ける夢。
友よ、君は信じてくれるだろうか。この俺を受け入れてくれるだろうか。退屈な時間を、息をあげて火照る体を、赤く腫れた傷を、全て?
そうだといい。それを信じて、俺はただひたすら待ち続けるだろう。
錆びたブランコが軋む音と別に、誰かの足音が聞こえる。時計は5時を指している。
足音がどんどん近づいてくる。一瞬、時計の針が5時より先に進みかけたのを見た。
大きく近くなった足音はほんの目の前で突然消えて、隣のブランコが微かに揺れる。
時計は3時を指していた。
子どものいない公園で、冷たいベンチに独り座っている。赤く腫れた傷を気にしながら、誰かを待っている。
俺は退屈していた。だけど退屈しのぎの遊具なら、ここにはいくらでもある。
俺は時々独りで遊具を揺らしてみる。大きな網目のボールをくるくるまわしたり、鉄棒でぐるぐると前まわりをしてみたりする。
子どもは三半規管をおかしくするのが好きらしい。それは大人もだけど。
それともこれらの遊具を考案したのは大人なんだから、大人のほうがよっぽど好きなのかも知れない。
疲れ果てるまでまわると、ふらふらとベンチまで戻ってきて座り込む。そしたらまた退屈になるまで休憩する。
冷たい空気を肺いっぱいに吸って、吐く。火照った体の熱が奪われていく。
時々こうやって無意味に体力を消耗したりしてみるのは、退屈しのぎとは別に、この凍える寒さをしのぐためでもあるのかも知れない。
ここはとても寒い。けど風はあまり吹かなくて、どちらかというと凛とした寒さだから、あまり辛いとは感じない。
それに人通りが多いから寂しさも紛れる。
特に多いのは犬の散歩で、時々どっちが連れられているのかわからない人もいる。
その様子を見ているのは中々面白い。
俺は気がむけば道行く人に喋りかけてみることもある。散歩?とか、寒いなあ、とかそういう他愛のないことを。
大抵はちょっと立ち止まって、愛想良く笑って返事をしながらまず俺の身なりを見る。何の問題もない格好だ。
それからすぐに立ち去っていく人もいれば、しばらく立ち話をしたり、一緒になってベンチに座って話すこともある。
何度かここで会って濃密な時を過ごすうちに親しくなった人もいる。
このお喋りを終えたあと、親愛なる彼らがどうやってこの公園を出て、どこへ行くのかを考えたことはない。
お喋りはとてもいいことだというのだけはわかる。退屈しのぎにも、体を温めることにもなるから。俺はお喋りが好きだった。
もう随分と長い間ここで過ごしているけど、食事や風呂の心配はない。毎日ちゃんと家に帰って、済ませているからだ。
ただ、そう感じたりやったと認識しているだけで、実際にそれらをやっている間の記憶も、家に帰った記憶も、ましてやこの公園から出た記憶すらもないのだけど。
お腹が空いていることに気づいてからしばらく経つとお腹が膨れていることに気づいたり、どんなに経ってもこの公園に来た時と同じ風呂上りの香りがして髪も汚れていないというのがわかるというだけだった。
この公園に来た時、とは言ったけど、実際どれぐらい前にどうやってここに来たのかは覚えていない。
いつもより大分遅く、そう昼過ぎ頃に起きてきて、風呂に入って、というところだけは覚えている。
時々、もしかしたら世界の、少なくとも俺がいるこの公園の時間がすっかり止まってしまってるんじゃないかと思うことがある。
でもこの公園には時計があって、その時計はちゃんと時間を刻んでいる。
だけど俺が見てきた限りでは、この時計には3時から5時の間しか存在しない。
5時を指しているのを見たと思えば、次に目をやった時には3時過ぎになっているからだ。
ここには3時から5時の間しか存在しないのか。
それとも、俺は記憶障害か二重人格か、またはその他のなにかで、本当はちゃんと家に帰って温かい晩飯を食べたり、風呂に入ったりしているのかも知れない。
それからもし二重人格なのだとしたら、こうやって意識をもっている時間がたったの2時間ということは、俺のほうが嘘の人格だって可能性が高い。
尤も、もう一方の人格を知りえない俺にとっては、どうでもいい話だけど。
俺はただここにいるだけで何も問題を起こさないし、もう一方が俺のせいで迷惑しているとは考えられない。
再び退屈が訪れる。俺が一番気に入っている遊具は、この錆びたブランコだ。
狭い枠の中に、ふたり分だけ吊るされた小さなブランコ。
でも、よくよく考えてみたら、今までこれに座った覚えがない。
曖昧な意識の中で、ブランコに腰掛ける。時計は相変わらず3時と5時の間を行ったり来たりしている。
不意に思い出す。俺は誰かを待っている。恋焦がれ、想うだけで身が火照るほどの誰かを。
凍える寒さの公園にやってきて、この小さなブランコのもう片方に座るはずの誰かを。ずっと待っている。
もしいつかやっとその誰かが現れた時、俺はどんなことを話そう。親愛なる友に、この愛を伝えるにはどうしたら。
夢の話はどうだろう。ここで待っている間に見た、あらゆる夢の話だ。
人は、俺はあまり夢を見ないほうなんだと思っているだろう。本当はその逆で、俺は一日のほとんどを夢や空想の中で過ごしている。
その上で夢からはみ出た部分が現実に触れているんだと言ってもいいかも知れない。
現実とはこの公園なのか、はたまた俺が覚えていないなにか公園の外にあるものなのかはわからない。
俺の夢や空想は甘くて心地よくて、人に話すのをためらうぐらいに幸せなものだ。
だけどこれから出会うことになる親愛なる友になら、俺の秘密を話してもいい。
3時から5時の間に繰り広げられる、薄い夕闇に包まれた甘美な夢。甲斐甲斐しくあなたを待ち続ける夢。
友よ、君は信じてくれるだろうか。この俺を受け入れてくれるだろうか。退屈な時間を、息をあげて火照る体を、赤く腫れた傷を、全て?
そうだといい。それを信じて、俺はただひたすら待ち続けるだろう。
錆びたブランコが軋む音と別に、誰かの足音が聞こえる。時計は5時を指している。
足音がどんどん近づいてくる。一瞬、時計の針が5時より先に進みかけたのを見た。
大きく近くなった足音はほんの目の前で突然消えて、隣のブランコが微かに揺れる。
時計は3時を指していた。
NO CATEGORY | 2009/12/01(火) 23:09 | | Comments:(0)
小さな病院だ。
隔離病棟は中庭のある円形の建物で、外側の壁には格子のついた窓しかない。
出入りは地下からする。医務室の奥にある鍵の掛かったドアが通路に繋がってるのさ。
徘徊癖のある患者がふらふらと外へ出て行かないようにした構造だ。
ここへ運ばれる時も、患者はみんな鎮静剤やら打った上で目隠しをして連れてこられる。
ドアの場所を知られちゃならないんだ。
患者たちが外に触れることができる場所は、枯れたまま放置された中庭だけ。
それでいい。
どうせここへ来るのは、運が悪ければ足を滑らせて死んでたようなやつらさ。
この閉鎖された空間は頭のおかしい連中を静かに死なせてやるのに適してる。
けど、頭がおかしくてここに入れられたやつらとは別に、
ここにいるうちに段々とおかしくなっちまったやつも少なくない。
無理もないさ。年がら年中ぼそぼそした独り言や泣き声や悲鳴の聞こえる職場じゃなあ。
そうやってひとりまたひとりって看護士たちが連中の仲間入りをして、今じゃもうほとんど残ってない。
他人に迷惑をかけないよう死なせてやるのがこの施設の役割なんだから、
元より人手なんてそれほど必要じゃなかったんだ。ああ、むしろ誰もいなくたっていいわけ。
まあ、せめて汚物や死体の処理をする掃除係ぐらいはほしいってとこだな。
俺の仕事も退屈なもんさ。
ちょっとした見回りと、なんやら効果の怪しそうな薬の処方。
今その薬を飲んでるのはひとりしかいないけどな。
そう、そいつちょっと面白いんだ。
普段は部屋に篭ってて、夕方頃になると中庭に出てくる。
目立った奇行はあんまり見ないんだけどそれよかとにかく独り言が多い。
それも見えない誰かさんと喋ってるわけでなくて、自分自身に対して話しかけてるんだ。
誰もいないとか、頭痛が酷いんだろうとか、中庭はいいよとか、幻覚なんだとか。
最初は俺に話しかけてるもんだと思ったんだけど、違うんだ。
その目はひたすら空虚を見つめて、いや、空虚を通して幽体離脱みたいに自分を見てるんだよ。
そんで無防備な脳みそに、望みを捨てろと投げかける。それに自分で返事をすることはない。
でも普通のお喋りができないわけじゃなくて。ふっと意識が戻って、何事もなかったかのように喋る。
喋るんだ。俺の目を、俺のむこうにある何かを見つめながら。何か訴えるんだ。
そしたら俺は、あんまりかわいそうなんで痛み止めを出してやる。
ああ、例のよくわからん薬だよ。だってそれしか支給されないからな。一体何の薬なんだ?
とにかくその薬を飲ませてやると落ち着くんだ。いや、ぐったりするのほうが正しいかもしれない。
俺はそれを見てる。他にやることがないからさあ。いや、いや、あるんだけど。山ほど。
でも幸せじゃないか。
ぐったりして生暖かい手を握ってるとさ、何かがこみあげてくる。
それただの一度飲み込んで胃で消化されかけてた食べものたちなんだけどね。
でさ、そうやってちょっとした至福の時を過ごした後は俺も部屋に戻って、静かに夜を過ごす。
ここいらはあんまりに静かなんで、夜中は神経質な患者が悲鳴を上げることが多い。
それに反応して起きだしちゃうやつらとかさ。
ほら上の階から窓の格子をがたがたやってる音が聞こえる。
もしかしたらネジが緩んでたかもな。あの部屋の患者はよくがたがたやるから。
あとで鍵を閉めておこう。部屋の鍵がしまってある場所の鍵はどこにやったっけ?
最後に使われた時に見てなかったんだ。この部屋のどこかかも。
ああ、すごい。部屋の隅々まで静かだ。これだから夜は。
なんてこった。
隔離病棟は中庭のある円形の建物で、外側の壁には格子のついた窓しかない。
出入りは地下からする。医務室の奥にある鍵の掛かったドアが通路に繋がってるのさ。
徘徊癖のある患者がふらふらと外へ出て行かないようにした構造だ。
ここへ運ばれる時も、患者はみんな鎮静剤やら打った上で目隠しをして連れてこられる。
ドアの場所を知られちゃならないんだ。
患者たちが外に触れることができる場所は、枯れたまま放置された中庭だけ。
それでいい。
どうせここへ来るのは、運が悪ければ足を滑らせて死んでたようなやつらさ。
この閉鎖された空間は頭のおかしい連中を静かに死なせてやるのに適してる。
けど、頭がおかしくてここに入れられたやつらとは別に、
ここにいるうちに段々とおかしくなっちまったやつも少なくない。
無理もないさ。年がら年中ぼそぼそした独り言や泣き声や悲鳴の聞こえる職場じゃなあ。
そうやってひとりまたひとりって看護士たちが連中の仲間入りをして、今じゃもうほとんど残ってない。
他人に迷惑をかけないよう死なせてやるのがこの施設の役割なんだから、
元より人手なんてそれほど必要じゃなかったんだ。ああ、むしろ誰もいなくたっていいわけ。
まあ、せめて汚物や死体の処理をする掃除係ぐらいはほしいってとこだな。
俺の仕事も退屈なもんさ。
ちょっとした見回りと、なんやら効果の怪しそうな薬の処方。
今その薬を飲んでるのはひとりしかいないけどな。
そう、そいつちょっと面白いんだ。
普段は部屋に篭ってて、夕方頃になると中庭に出てくる。
目立った奇行はあんまり見ないんだけどそれよかとにかく独り言が多い。
それも見えない誰かさんと喋ってるわけでなくて、自分自身に対して話しかけてるんだ。
誰もいないとか、頭痛が酷いんだろうとか、中庭はいいよとか、幻覚なんだとか。
最初は俺に話しかけてるもんだと思ったんだけど、違うんだ。
その目はひたすら空虚を見つめて、いや、空虚を通して幽体離脱みたいに自分を見てるんだよ。
そんで無防備な脳みそに、望みを捨てろと投げかける。それに自分で返事をすることはない。
でも普通のお喋りができないわけじゃなくて。ふっと意識が戻って、何事もなかったかのように喋る。
喋るんだ。俺の目を、俺のむこうにある何かを見つめながら。何か訴えるんだ。
そしたら俺は、あんまりかわいそうなんで痛み止めを出してやる。
ああ、例のよくわからん薬だよ。だってそれしか支給されないからな。一体何の薬なんだ?
とにかくその薬を飲ませてやると落ち着くんだ。いや、ぐったりするのほうが正しいかもしれない。
俺はそれを見てる。他にやることがないからさあ。いや、いや、あるんだけど。山ほど。
でも幸せじゃないか。
ぐったりして生暖かい手を握ってるとさ、何かがこみあげてくる。
それただの一度飲み込んで胃で消化されかけてた食べものたちなんだけどね。
でさ、そうやってちょっとした至福の時を過ごした後は俺も部屋に戻って、静かに夜を過ごす。
ここいらはあんまりに静かなんで、夜中は神経質な患者が悲鳴を上げることが多い。
それに反応して起きだしちゃうやつらとかさ。
ほら上の階から窓の格子をがたがたやってる音が聞こえる。
もしかしたらネジが緩んでたかもな。あの部屋の患者はよくがたがたやるから。
あとで鍵を閉めておこう。部屋の鍵がしまってある場所の鍵はどこにやったっけ?
最後に使われた時に見てなかったんだ。この部屋のどこかかも。
ああ、すごい。部屋の隅々まで静かだ。これだから夜は。
なんてこった。
NO CATEGORY | 2009/11/04(水) 23:06 | | Comments:(0)